ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

7-1. 幕府の権威はなぜ、どのように弱まったのか? - 内憂外患、巨城の崩落

江戸幕府による支配は、約2世紀半もの長きにわたり、日本に「泰平」と呼ばれる安定した時代をもたらした。しかし、19世紀に入ると、その盤石に見えた権威と支配体制にも、徐々に陰りが見え始める。そして、ペリー来航という「外圧」を契機として、それまで水面下で進行していた「内なる矛盾」が一気に噴出し、幕府の権威は急速に失墜していくことになるんだ。

このページでは、江戸幕府の権威がなぜ、そして具体的にどのような要因によって弱まっていったのかを、「内部要因(内憂)」「外部要因(外患)」の二つの側面から整理し、それらがどのように相互に作用しあって幕藩体制の根幹を揺るがしたのかを明らかにしていく。まるで巨大な城が、知らぬ間に内部から蝕まれ、そして外からの衝撃で一気に崩れ落ちるかのようにね。

内部要因(内憂):幕藩体制の構造的矛盾と疲弊

幕府の権威失墜は、まずその内部に長年蓄積されてきた様々な問題が顕在化したことから始まった。

1. 財政の慢性的な悪化と経済的基盤の脆弱化 内憂

  • 歳入構造の限界: 幕府の主な収入源は天領からの年貢米だったが、耕地開発の限界や米価の不安定さから、歳入は伸び悩んだ。初期の重要な財源だった佐渡金山などの鉱山収入も減少の一途をたどった。
  • 歳出の恒常的増大: 旗本・御家人への俸禄、幕府機構の維持費、江戸城の維持、大奥の経費、そして度重なる大火や地震、飢饉などの災害対策費は増大する一方だった。
  • 繰り返される貨幣改鋳とその弊害: 幕府は財政赤字を補うため、しばしば金銀の品位を下げて通貨量を増やす貨幣改鋳を行った。これは一時的な収入(出目)をもたらしたが、長期的にはインフレーションを引き起こし、物価を高騰させ、庶民生活を圧迫し、幕府の経済政策への信用を失墜させた。特に幕末の万延年間の改鋳は、著しい質の低下と激しいインフレを招いた。
  • 経済統制能力の限界: 商品経済が全国的に発展する中で、幕府の経済に対する統制力は相対的に低下。米価のコントロールも難しくなり、武士階級の経済的困窮を招いた。

2. 三大改革の限界と政治的求心力の低下 内憂

  • 対症療法の限界: 「経済編」や「政治編」で見たように、享保・寛政・天保の三大改革は、幕府財政の再建や綱紀粛正を目指したが、その多くは倹約令や風俗取締といった対症療法的な政策に終始し、幕藩体制が抱える構造的な矛盾(例えば、米本位制と貨幣経済のズレなど)を根本的に解決するには至らなかった。
  • 改革の失敗と権威失墜: 特に天保の改革(水野忠邦)が、上知令の失敗や株仲間解散による経済混乱など、ほとんど成果を上げられずに短期間で終わったことは、幕府の政治的指導力の無力さを内外に露呈し、その権威を大きく傷つけた。

3. 身分制度の動揺と武士階級の変質・困窮 内憂

  • 武士の経済的困窮: 武士の俸禄は米で支給されたが(石高制)、生活必需品の多くは現金で購入しなければならなかった。商品経済の発展は物価を上昇させ、また米価は豊作時などに下落することもあったため、多くの武士、特に下級武士は慢性的な経済的困窮に陥り、商人からの借金に頼るようになった。これは武士の不満を高め、支配階級としての誇りを傷つけた。
  • 武士の官僚化と尚武の気風の衰退: 長い泰平の世で、武士は戦闘集団としての性格を失い、行政官僚としての性格を強めた(文治政治)。これにより、かつての尚武(武勇を重んじる)の気風は薄れ、幕府を支える軍事力の質も低下した可能性が指摘される。
  • 身分秩序の建前と実態の乖離: 「士農工商」という身分序列は建前として存在したが、経済的には商人や豪農が武士を凌駕する例も多くなり、身分秩序の正当性が揺らぎ始めた。

4. 社会不安の増大と民衆運動の激化 内憂

  • 飢饉の頻発と対応の限界: 天明の飢饉(1782~87年)や天保の大飢饉(1833~39年)は、全国的な規模で深刻な食糧不足と多数の餓死者を生み、幕府や藩の救済策の不備を露呈させた。
  • 百姓一揆の激化・広域化: 年貢の重圧や領主の不正に対し、農民たちは団結して抵抗。特に江戸時代後期には、特定の村だけでなく広範囲の農民が参加する惣百姓一揆や、貧民救済や社会の不正の是正を掲げる世直し一揆が頻発し、その要求もより根本的なものへと変化していった。これらは幕藩体制の支配を直接的に脅かす力となった。
  • 都市における打ちこわしの多発: 米価高騰時などに、都市の貧民が米屋や豪商を襲撃する打ちこわしも頻発し、社会不安を増大させた。
  • 「ええじゃないか」現象 (幕末期): 御札が降ってきたとして、身分や性別を超えて人々が熱狂的に踊り狂う集団乱舞。これは、既存の社会秩序からの逸脱願望や、世の中の変革への漠然とした期待感の現れとも解釈される。

5. 思想的動揺:国学・水戸学と尊王思想の台頭 内憂

  • 国学の発展: 本居宣長らによって大成された国学は、日本固有の精神文化を称揚し、天皇の存在を重視する考え方を広めた。これは、中国伝来の儒学(特に幕府の正学である朱子学)を相対化し、日本の独自性への意識を高めた。
  • 水戸学の展開: 水戸藩で編纂された『大日本史』の過程で形成された学問。初期は儒教的な大義名分論に基づいていたが、後期には藤田東湖(ふじたとうこ)や会沢正志斎(あいざわせいしさい)らによって、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」(天皇を尊び、外国を打ち払う)思想が体系化された。
  • 尊王思想の浸透: これらの思想は、将軍は天皇から政治を委任されているに過ぎないという考え方(大政委任論)を強調し、幕府の支配の正当性を問い直す動きに繋がった。幕府の権威が揺らぐ中で、天皇の権威が相対的に浮上し、幕府批判や討幕運動の思想的根拠となっていった。
東大での着眼点: これらの多様な内部要因が、単独で作用したのではなく、相互に複雑に影響し合いながら、時間をかけて幕府の力を内側から弱めていった過程を、具体的な出来事と関連付けて理解することが重要。

外部要因(外患):西洋列強の接近と開国圧力

国内で様々な矛盾が深まる中、18世紀末頃から、日本の「鎖国」体制を揺るがす外部からの圧力が強まっていった。

1. 18世紀末からの外国船の接近とアヘン戦争の衝撃 外患

  • ロシアの南下: 1792年にラクスマンが根室に来航し通商を要求。1804年にはレザノフが長崎に来航し再び通商を要求するが、幕府は拒否。その後、間宮林蔵による樺太探検などが行われた。
  • イギリスの進出: 1808年にはイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、薪水・食料を強奪して退去する事件が発生(フェートン号事件)。幕府の威信を傷つけた。
  • 幕府の対応と異国船打払令 (むにねんうちはらいれい) (1825年): 外国船の接近が相次いだため、幕府は清・オランダ船以外の外国船は理由を問わず打ち払うよう命じた。しかし、これは必ずしも徹底されなかった。
  • アヘン戦争 (1840-42年)の衝撃: 隣国の大国である清が、イギリスとのアヘン戦争に敗北し、不平等条約(南京条約)を結ばされたという情報は、日本の支配層に西洋列強の軍事力に対する強烈な危機感を与えた。この結果、幕府は異国船打払令を緩和し、遭難した外国船には薪水・食料を与える薪水給与令 (しんすいきゅうよれい) (1842年) に方針を転換した。

2. ペリー来航と開国、そして不平等条約の締結 外患

  • ペリー来航 (1853年): アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀に来航し、大統領国書を幕府に渡し、開国を要求。蒸気船の威力は日本人に衝撃を与えた。
  • 日米和親条約 (1854年): ペリー再来航。幕府はアメリカとの間で和親条約を締結。下田・箱館の2港を開港、薪水・食料の供給、漂流民の救助、そしてアメリカへの最恵国待遇などを認めた。これにより、200年以上続いた「鎖国」体制は終焉を迎えた。
  • 日米修好通商条約 (1858年) と安政の五カ国条約: アメリカ総領事ハリスの強い要求により、幕府(大老・井伊直弼)は、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印。続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約(安政の五カ国条約)を締結。
    • 不平等な内容: これらの条約には、領事裁判権の承認(治外法権)(外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けない)や、関税自主権の欠如(輸入品にかける関税を日本が自由に決められない)といった、日本にとって著しく不利な不平等条項が含まれていた。
  • 開国後の経済混乱:
    • 金の大量流出: 日本と海外の金銀比価の違い(日本では金1に対して銀5程度、海外では金1に対して銀15程度)を利用され、日本の金が大量に海外へ流出した。幕府は質の悪い万延小判を発行して対応しようとしたが、激しいインフレを招いた。
    • 輸出入の急増と物価高騰: 生糸や茶などが大量に輸出されたため国内で品不足となり価格が高騰。一方で安価な綿織物などが輸入され、国内の生産者に打撃を与えた。これにより庶民の生活は圧迫された。
東大での着眼点: 外圧、特にペリー来航と不平等条約の締結が、幕府の権威失墜にどのように直接的・間接的に影響したのか。不平等条約の具体的な内容(領事裁判権、関税自主権の欠如)とその歴史的意義、そして開国が国内経済に与えた混乱(金の流出、インフレなど)が、その後の社会不安や政治運動にどのように結びついていったのかを正確に理解すること。

内憂外患の連動と幕府権威の崩壊過程:負のスパイラル

これらの「内憂」と「外患」は、決して個別に存在していたわけではなく、相互に複雑に絡み合い、幕府の権威を失墜させる負のスパイラルを生み出していった。

このように、幕府は国内の構造的矛盾によって弱体化していたところに、西洋列強という強大な外圧に直面し、その対応のまずさからさらに国内の政治対立を深め、求心力を失っていった。そして、最終的には大政奉還(1867年)王政復古の大号令(同年末)という形で、その260年以上にわたる支配に終止符を打つことになるんだ(この具体的な政治過程は「2-1-5. 幕末の政治危機と諸勢力の動向」で詳述)。

結論:複合的要因による「必然」の崩壊か?

江戸幕府の権威失墜と最終的な崩壊は、単一の原因によってもたらされたものではなく、長年にわたる内部矛盾の蓄積と、19世紀半ばにおける深刻な外部環境の変化という、まさに「内憂外患」が複合的に作用した結果であったと言えるだろう。

幕藩体制というシステムが、その成立期には有効に機能し、長期の安定をもたらした一方で、時代の変化(特に商品経済の発展や国際環境の変化)に対応しきれず、その制度疲労を起こしていたことは否めない。そこに、西洋列強の圧倒的な軍事力と巧みな外交戦略が加わり、幕府は有効な手立てを打てずに追い込まれていった。

これが歴史の「必然」であったのか、あるいはもし別の選択肢を取っていれば異なる結果があり得たのか、という問いは、歴史を学ぶ上で常に考えさせられるテーマだ。しかし、少なくとも言えるのは、幕府の権威が弱まった背景には、一朝一夕ではない、根深い構造的な問題が存在したということだ。

【学術的豆知識】「外圧」は本当に「外」からだけだったのか?

幕末の日本を開国へと導いた「外圧」というと、ペリーの黒船に象徴されるように、もっぱら西洋列強からの軍事的・政治的圧力と考えられがちだ。しかし、それ以前から、例えば蘭学を通じて西洋の文物や国際情勢に関する情報は、限定的ながらも日本の知識層に流入しており、彼らの中から「世界の中の日本」という意識や、現状の「鎖国」体制への疑問が生まれていたことも見逃せない。また、漂流民の送還問題や、捕鯨船の補給要求など、経済的・人道的な次元での接触も増加していた。つまり、「外圧」は単に外からの一方的な力だけでなく、日本社会の内部にも、それを受容したり、あるいは反発したりする素地が育まれつつあった。こうした内外の要因が複雑に絡み合って、開国という大きな転換がもたらされたと考えることができるんだ。

(Click to listen) When we think of "gaiatsu" (external pressure) that led Japan to open its ports in the Bakumatsu period, we often imagine primarily military and political pressure from Western powers, symbolized by Perry's "black ships." However, it's important not to overlook that even before then, information about Western culture, artifacts, and international affairs had been flowing into Japan's intellectual circles, albeit in a limited way, mainly through Rangaku (Dutch Learning). This fostered an awareness of "Japan in the world" and doubts about the existing "sakoku" (national seclusion) system among some. Furthermore, contacts on economic and humanitarian levels, such as the repatriation of castaways and requests for supplies by whaling ships, were increasing. In other words, "external pressure" was not merely a unilateral force from the outside; a foundation for either accepting or resisting it was also developing within Japanese society. It can be argued that the major turning point of opening the country was brought about by a complex interplay of these internal and external factors.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page analyzes the internal and external factors that led to the decline of the Tokugawa Shogunate's authority during the Bakumatsu period. The seemingly unshakeable shogunal power gradually eroded, culminating in its collapse.

Internal factors (Naiyū - domestic troubles) included: 1. Chronic fiscal deficits due to structural limitations in revenue (reliance on nengu, declining mine output) and increasing expenditures, exacerbated by currency debasements which caused inflation and loss of confidence. 2. The failure of the "Three Great Reforms" (Kyōhō, Kansei, Tenpō) to address fundamental socio-economic contradictions, exposing the Shogunate's political impotence. 3. The erosion of the samurai class's status due to economic hardship (especially for lower samurai) in a monetizing economy and the bureaucratization of the warrior class, leading to a disconnect between the official status hierarchy and economic realities. 4. Growing social unrest manifested in frequent famines, intensified peasant uprisings (hyakushō ikki, including "yonaoshi" world-rectifying ikki), urban riots (uchikowashi), and phenomena like "Ee ja nai ka," indicating a loosening of social order. 5. Ideological shifts, particularly the rise of Kokugaku (National Learning) and Mitogaku (Mito School), which fostered pro-imperial (Sonnō) sentiment and questioned the Shogunate's legitimacy.

External factors (Gaikan - foreign threats) included: 1. Increasing encounters with foreign ships (Russian, British, American) from the late 18th century, leading to policies like the Edict to Repel Foreign Vessels (1825). 2. The shock of China's defeat in the Opium War (1840-42), which heightened awareness of Western military power and led to a policy shift (Ordinance for the Provision of Firewood and Water, 1842). 3. Commodore Perry's arrival (1853) and the forceful demand to open Japan, resulting in the Treaty of Kanagawa (1854), ending Japan's seclusion. 4. The signing of unequal treaties (Ansei Treaties, 1858) with Western powers, which included extraterritoriality and loss of tariff autonomy, fueling anti-foreign (Jōi) sentiment and criticism of the Shogunate. 5. Economic disruptions following the opening of ports, such as gold drain and inflation, further destabilized society.

These internal and external pressures interacted dynamically. For instance, the Shogunate's handling of foreign demands (consulting the Imperial Court, signing treaties without imperial sanction) exacerbated domestic political conflicts (e.g., Shogun succession dispute, Sonnō Jōi movement, Kōbu Gattai, Tōbaku movement), rapidly diminishing its authority and leading to its eventual downfall through the Taisē Hōkan (Restoration of Imperial Rule) in 1867.


幕府の権威が、様々な要因によって内からも外からも揺さぶられていった様子が理解できただろうか。 次は、この幕府の終焉を受けて、日本がどのように新しい時代「明治」へと移行していったのか、その「維新」の過程を見ていこう。

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